天の浮橋−② 駆霊について The Floating Bridge of Heaven – 2.

 「天の浮橋」の意味は前回の投稿でご理解いただけたものと思います。今日は、これを天霧の稽古で実際に使う時の注意点等について書いておきます。天霧では「天の浮橋」を実際に活用する時の概念を「駆霊(カケヒ)」としています。ですから以下の内容は、駆霊に関する管理人雑感ということになります。

 まずは、駆霊という言葉(管理人の造語です)の説明から。カケヒというと、一般的にはと書いて、フシを抜いた竹や中心部をくり抜いた木を水源と目的地に渡して水を通すもののことをいいます。駆霊の最初のイメージはこのです。しかし、その中を流れるのは水ではなく、父韻キシチニヒミイリです。なお、言霊のことを一字で霊と表すことがあります。駆霊という漢字の位置を前後に変えると霊駆(ヒカリ)と成ります。実はこれが光の語源とされているのですが、このことは今日は触れません。

 さて、天霧の実際の稽古ですから自分がここに居て、相手があちらに居る。その相手と一定の間合いを隔てて向き合って居るという状況です。そのとき、彼我の間に何が去来しているか?駆霊が繋がりその中をキシチニヒミイリが活動しています。この事情をよく認識しない限り天霧の技の発現が難しくなります。稽古で管理人が彼我の繋がり、駆霊を意識することを強調するのはそのためです。

 しかし、実はそこに一つのジレンマがあります。初心者には駆霊といっても何のことか分かりませんから、駆霊の意味を説明し、それを意識的に使うように指導するしか方法がないので最初のうちはそれでいいのですが、しかし、天霧の稽古をある程度継続して頂き、同時に言霊学の理解が進んできますと、管理人の最初の指導が足枷になってしまうのではないか、言い換えれば、相手と向き合った時に駆霊を繋げようと意識的に努力しなければいけないという「思い込み」を作り上げてしまっているのではないかということです。

 以前の投稿で説明しましたようにキシチニヒミイリという父韻は私たちが生まれながらに持っている知性のパルスであり、私たちが社会的・文化的生活を始めるならば当然自然に活動するものです。そこに意識的努力は必要ありません。先の話に戻れば、天霧の稽古で相手と向き合い、これを捉えれば瞬時に父韻が活動を始めるということです。つまり、駆霊を意識しなくとも厳然と駆霊が掛かっているということです。ですから、管理人が初心者に対し行う「駆霊を繋げてください」という指導内容は本来不必要な事柄なのです。本来必要ないものではあるけれど、方便としてそうせざるを得ないものなのです。

 以上をご理解頂いた上で、むしろ、その父韻がどのような心の宇宙の次元で活動しているのかということが重要になってくるというお話に移りたいと思います。心の宇宙は、ウオアエという次元の重層構造です。そのどの次元を主導的な次元とするのかという問題です。

 ところで、剣道の極意として「遠山の目付」という言葉があります。遠くの山を見るような感じで眼前の相手を見るということでしょう。この極意を言霊学で検討してみましょう。おさらいになりますが、言霊「ウ」は現識の次元、言霊「オ」は現識相互の関連性を見る学識の次元、言霊「ア」はそうした現識、学識のよって来たる本源の空間を見る次元(感識の次元としておきます)です。

 さて、武道が道として語られる以前の姿はどのようなものだったでしょうか。それは行き当たりばったりの暴力的衝突だったに違いありません。勝つこともあれば負けることもある現識の次元です。このバラバラの世界に一つの法則性を見出し、常勝のスキルを見出す。これが学識の次元での武道という概念の成立です。そして、この道を極めたところは如何なるものかとの問いを発すれば言霊「ア」= 感識の次元に入るということができるでしょう。

 問いを変えましょう。「遠山の目付」ではない目付とはどのようなものでしょう?それは、相手の一挙手一投足をしっかり見ることであろうと考えられます。主客対立の世界で対象をしっかり観察することです。これは正に科学の姿勢であり、ロジックの世界です。そして、その考えのベースになっている事柄は個人の経験知(識)に他なりません。個人の経験知(識)には限界があります。それが技の限界の壁を形成してしまうのではないでしょうか。

 

 これに対して、「遠山の目付」においては現識や学識が出てくる心の大元の宇宙を見る姿勢であるといえるでしょう。心の宇宙の大元は広大です。ひとたび感識の次元に入ることができれば、現象としての技は融通無碍であるといえるのではないでしょうか。

 

 今日は駆霊に関する管理人の雑感でした。まとまりのないお話になりましたが、特に天霧総師範、各師範におかれては是非ご一読、ご検証願えればと思います。

 それではまたお会いしましょう。

 I hope you have understood the meaning of “Ame no Ukihashi” in my last post. Today, I would like to write about how to use it in practice in Amagiri. In Amagiri, the concept of Ame no Ukihashi is called Kakehi, which means “driving spirit”. The following are my personal thoughts on the use of Kakehi.

 First, let’s start with an explanation of the word 駆霊 (Kakehi : a term coined by the manager). The word “kakehi” is generally written as a “筧: kakei”, and refers to a bamboo that has been plucked out of a fusillade or a tree that has been hollowed out of its center and passed to a water source and destination to allow water to pass through. The first image of Kakehi is this material. However, it is not water that flows through it, but a father-rhyme KSTNHMYR. It may be noted that a single character 霊(spirit) is sometimes used to describe the Words(
言霊 Kototama ). If you change the position of the character for 駆霊 back and forth, you get 霊駆 (Hikari). This is said to be the origin of the word “Hikari”the light in Japanese.

 Now, in the practice of Amagiri, I am here and my opponent is over there. The other person is over there, and you are facing him or her with a certain distance between you and him or her. What comes and goes between you and your opponent? The Kakehi is connected and father-rhymes are active within it. Unless one is well aware of this phenomenon, it is difficult to perform the Amagiri technique. This is the reason why I emphasize the importance of being aware of the connection between you and the opponent activated by the father-rhymes.

To be continued・・・・・

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