常識ということ

 今日は少し趣向を変えて、「常識」ということについて考えてみたいと思います。日常生活の中でこの言葉は、場合により、想像以上に強力な否定や排除の意味合いを持っているようです。

 「あなたには全く常識というものがない。」

 「それ、常識でしょ!」

 「もっと常識を持った対応をしてほしい。」

 このような言葉を投げかけられると、咄嗟に反論の言葉も思い付かないほどココロが固まってしまいます。相手を一瞬にして思考停止状態にさせてしまうこの常識という言葉。天霧の技の習得や、コトタマの理解を困難にしているものは、私たちがこれまで積み込んできた経験知であるということは以前の投稿でも説明してきました。常識という言葉は、この経験知と同じような波動を出していると、管理人は感じます。ですから、その正体について一度立ち止まって考えてみるのも、益のないことではないでしょう。

 「常識」という言葉の誕生経緯を調べてみると、この言葉は、1776年、英国人のトマス・ペインが発行したパンフレット(アメリカ合衆国の独立の必要性を説いたもので、合衆国独立への世論形成に貢献したとされています)のタイトルである Common Sense の訳語で、日本では明治時代から普及し始めたもののようです。

 以下は、これまでの人生で何度も非常識と言われてきた(笑)管理人の個人的な解釈になりますので、冗談半分で読んでいただければと思います。管理人は、この訳語ができた当時、常識とは「常在」している「識」と言うことだったのではないかと思っています。つまり、時間の流れにかかわりなく恒常的に存在している(常在)、人間が対象を認識する心の働き(識)ということです。六識とか八識といわれる仏教の認識論・存在論の基本概念を反映した訳語だったのではないでしょうか。

 人間が先験的、恒常的に保持しているココロの働きーこれはコトタマ学では8つの父韻です。常識と言う訳語の元になった Common Sense の意味を正確にとらえた訳語だったと思います。このように考えると、常識と言う言葉は、まさに私たちが常識的に理解しているよりももっと深い意味を持つ言葉だったのではないかと思われます。ところが時の流れとともに「常識」の意味が知識・学力偏重の潮流の中で、「一般の社会人が共通にもつ、またもつべき普通の知識・意見や判断力」(大辞泉)という限定されたものになってきたようです。

「経験知」との関係では、(一般に使われている意味での)「常識」とは現代社会の中で一般的かつ広範な市民権を確立するようになった「経験知」だと言えるでしょう。

 それではまたお会いしましょう。

 

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