天霧の目標(経験知との付き合い方)

 抽象的なお話の続きです。

 「天霧が目指していること」で、経験知は日常的な社会生活を送る上でとても重宝していると書きました。しかし、日常生活の軌道に乗っているときは良いのですが、その軌道から外れてしまった場合には、この「経験知」が逆に重い足かせになってしまうことがあります。

 例えば、重い病気やリストラを急に宣告された、親友から裏切られてしまった、仕事で大失敗してしまった、試験に落ちてしまった・・・・・。そんな時、私たちは日常の軌道から大きく脱落してしまった、あるいは軌道自体が消えてしまったように感じます。ココロは、無力感、焦燥感、失望、自己否定、恨み辛みといった否定的な思いや感情で一杯になってしまいます。

 さて、ところで、その無力感、焦燥感、失望、自己否定、恨み辛みと言ったものは、何に対して無力と感じ、何と比べて焦り、自分の何を否定し、何を根拠として恨み辛みを抱いているのでしょうか?頭を抱え込んでいる時のココロの判断基準は何でしょう?どんなレールから脱線してしまったのでしょうか?

 それは、自分自身が作り上げて来た価値観、思い込み、信念、信条、思想などなどー経験知ーではないでしょうか。経験知によって作られたレールから脱線して「落ち込んでいる」のではないでしょうか?

 ところで、管理人は、40年にわたる外交官生活で色々な国に滞在することができました。その経験の中で印象深かったことは、それぞれの国で、「経験知によるレール」が相当異なっていると言うことでした。人生のレールは色々とある、と言うことでした。

 少しショッキングな話ですが、アフリカのある国では、車で人身事故を起こした場合、即座に事故現場から離れ、最寄りの警察署に駆け込むと言うことが常識でした。しかし、日本でこんな行動をとれば炎上間違いなしです。

 人生のレールは色々とあるのです。ですから自分の経験知によって自分自身が設置したレールから脱落したとしても、落ち込む必要は全くないと言うことです。落ちたところに、もっと素晴らしいレールがあるかもしれないのですから。

 このことを、少し違った角度から見てみます。経験知との付き合い方と言う今日のテーマに沿った見方です。経験知は私たちが作り上げて来たものです。大げさに言えば、私たちが創造主で、経験知は被創造物=道具です。しかし、多くの場合この関係性が逆転してしまっているのではないでしょうか?

 経験知の違いによって引き起こされている悲惨な事件が、21世紀の現代でもたくさんあります。宗教観の相違による闘争などはその最たるものでしょう。その根本には、経験知と私たちとの主従関係の逆転があると、管理人は思います。

 経験知が主人となって、私たちを道具として使ってしまっているのです。信念、信条が私たちをコントロールしてしまっていると言うことです。立ち止まって静かに考えれば、経験知は私たちが積み上げて来たものだと言うことがすぐに分かります。しかし、私たちは、「自分=自分が積み上げて来た経験知」だと思い始め、そのうち、自分よりも自分が積み上げて来た経験知の方が偉いと信じてしまう傾向があるようです。

 私たちのココロはもっと広大です。その広大な宇宙に一瞬漂っているものが、私たちが偉いと信じ込んでいる経験知なのです。「直心影流」の口伝は、この経験知によるシバリから解放され、私たちのココロは本来広大無辺の宇宙であると言うことに気付くことが、極意を掴む秘訣であると教えているのではないでしょうか。

 今日は面倒臭いお話になってしまいました。しかし、ココロの科学言霊の基礎になる事柄ですので、ご理解頂ければ嬉しいです。

 経験知は、広大無辺の私たちのココロに浮かぶ葦(アシ)のようなものです。アシにアゴで使われないようにしたいものです!

 それではまたお会いしましょう。

 

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